2013年10月アーカイブ

10月29日午後11時から、みやこ町豊津甲塚墓所で秋月藩士の138回忌墓前法要が、
豊津郷土史会によって営まれます。

(昨年の画像)
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明治時代、新政府が発した版籍奉還や秩禄廃止などの法令は、これまで幕府から俸禄を受けていた士族にとって
ずいぶん厳しいものであったため、不満を爆発させた士族は各地で次々に反乱を起こした。

明治9年10月、熊本の神風連につづき萩の前原派も挙兵し、この動きに呼応して秋月党が兵をあげ、
志を同じくする者同士が大同団結して新政府を糾弾しようとした。
豊津では、秋月党から密命を受けた急進派の杉生十郎が豊津士族を取りまとめ決起することに同意したため、
秋月党は豊津に向けて出発した。

豊津藩は幕府の長州征伐で小倉城を自焼して香春に退き、藩主の小笠原忠忱公は熊本の細川家を頼って落ちる途中、
秋月藩の支援を受けたため、秋月党はその恩義によって豊津士族は呼応してくれるものと思っていた。

秋月党は豊津士族に再三決起を迫ったが、当時の豊津は明治政府の廃藩置県によって城郭の建設も中止になり、
士族も豊津を中心に各地に散在していたため、評議は簡単にはまとまらなかった。
また、小倉鎮台の乃木希典少佐は各地の士族の動きを把握し、豊津士族に行動を慎むよう警告したため、
豊津士族の指導的地位にあった生駒九一郎は、秋月党に対して挙兵要請に応じられないことを伝え、
豊津侵入を思いとどまらせようとした。

それにもかかわらず秋月党は油須原を経て犀川木山に軍を進め、豊津士族の制止を押し切って続命院から
豊津に向けて進軍し、豊津小学校付近に陣を敷いた。
豊津士族は育徳館に集結し、秋月党の代表者と挙兵同盟の談判が行われたが、長引く協議の最中に銃声がとどろき、
これを合図に秋月軍、豊津士族、八景山に詰めていた小倉鎮台による市街戦が始まった。
秋月党は戦力や装備に劣り豊津での地の利もなく、夕方には勝敗が決着し、秋月軍は英彦山に向けて退却を始めた。

この秋月の乱で秋月党は17名の戦死者を出し、甲塚墓所に葬られ翌年秋月遺族により墓碑が建立され、
明治13年には豊津士族により供養碑が建立された。
その後、毎年10月29日には秋月士族の戦没者を悼み供養祭が営まれている。

(向かって左:秋月遺族による墓碑   右:豊津士族による供養碑)
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NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場し、同志社に入学した熊本出身の徳富蘇峰は、その著書「近代日本国民史」に「秋月党は豊津まで招きよせられて、豊津士族に裏切られた」と記述しているが、生駒九一郎としては、豊津を頼ってくるものを討つことは出来ないため、豊津侵入を思い止まらせようと力を尽くしたが叶わなかったとの事である。
(豊津町誌参照)

豊津を舞台にした秋月の乱という過去の不幸な歴史を振り返り、29日の供養祭には大勢の墓参をお願いします。

苅田町の西日本工業大学で留学生の後期入学も完了し、新入留学生歓迎会が開催されました。
みやこ町国際交流協会は歓迎会の招待を受け、役員4人が出席しました。

後期入学の新入留学生は五十数名との事でしたが、在学中の留学生も参加して盛大な歓迎会になっていました。
留学生は中国をはじめ、韓国やベトナムからもかなりの留学生が入学しているとの事です。

開会式では新入留学生代表がスピーチで、これからの決意を述べていましたが、
きちんとした日本語での話しぶりに頼もしさを感じました。

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懇親会では、今年2月、みやこ町三重塔まつり国際交流会に参加して餅をついた中国留学生の張阿芳さんに再開し、
元気で学業に励んでいる姿に接しました。

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西日本工業大学の留学生は何事にも積極的で、日本とは違った大陸文化を感じました。
みやこ町での交流会には、これからの時代を担う小、中学生が積極的に参加して、
留学生が持っている海外の異文化に、じかに接して欲しいと思います。

撮影日:2013.10.12

平成20年に開設された「京築まるごとナビ」も、今年で5年目になり、トップ画面のリニューアルのほか
色々な機能を追加して、読者や投稿者が快適に利用できるように改修される予定です。

去る9月28日、今年第1回目の京築地域ディレクター会が開催され、築上町文化会館コマーレに
KDメンバーと関係者が集まり、意見交換が行われました。

福岡県広域地域振興課の予算内での改修ですので大幅な改善は無いようですが、
少しずつでも情報化社会の流れにマッチさせて、ファンが増えればと期待しています。

KD会恒例の散策では、京築2市5町のディレクターが参加して地元築上町の史跡巡りが行われ、
町内ボランティア史跡ガイドさんの丁寧な案内で、築上町の認識が深まりました。

最初の訪問地の旧蔵内邸は、田園の中に遠目にもそれとわかる威容を誇っていますが、
このほど築上町の手で観光スポットとして整備され、炭鉱主住宅の豪華さが一段と際立っていました。

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続いて、築上町ゆかりの先人として内野東庵先生の顕彰碑を巡りました。
明治から大正時代にかけて、医業の傍ら地域の殖産事業を振興し、道路整備やトンネル掘削を行い、
住民の暮らしを向上させた功績を称えられています。

                                       山中に築いた雪穴 (雪をためて、氷を患者の治療に使った)
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征矢野半弥翁は小笠原藩士の子息で、小倉城自焼のあと赤幡に移住して豊津育徳館に学び、西日本新聞社を興し、
国会議員も務めました。
八幡製鉄所や九州大学を福岡県に誘致した功績が称えられ、鹿の戸公園に銅像が建立されています。

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町内散策のあと、築上町の「紀文」で懇親会となり、メンバーの親睦を深めました。
京築地域を一括りとして集まった他市町メンバーとの交流は、今の自分の立ち位置が良く解り、
毎回有意義な交流会になっています。

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撮影日:2013.9.28