2016年4月アーカイブ

小倉藩の庄屋と大庄屋について、みやこ町役場川本英紀氏が
江戸期の古文書を読み解きながら講演を行った。

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1600年の関ケ原合戦のあと、細川忠興は田川2郡と豊前4郡を与えられ
豊前中津に入城したが、2年後に小倉城の改修を行い、藩庁を小倉に移した。

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細川氏が築城した小倉城は、1866年の第二次長州征伐戦で焼失した。
現存の天守閣は、昭和34年に再建されたもの。


細川忠興は領地を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて、
責任者に惣庄屋を置くという行政制度を創設した。

手永とは郡と村の中間にあたる行政区で、庄屋や大庄屋を置き、
年貢の取り立てや民政の運営にあたらせた。

村とは自然発生のものではなく、行政的に作られた組織で、
検地によって線引きされた範囲のものが村となっている。


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細川忠興が建設した小倉の城下町。東曲輪という地区に碁盤目状の道路を配している。
(現在の小倉北区紺屋町、堺町付近)


江戸時代の早い時期では、大庄屋は土地の土豪や地域の有力者が任命され、土地を与えられたが、
時代が進むと俸禄になり、人事異動も行われて次第に官僚化していった。

庄屋、大庄屋は村人から年貢を徴収し藩の蔵に納めたが、
凶作になると年貢を取る役目が出来ず大変なことになった。

国作手永の大庄屋の日記には「年貢を厳しく取り立てると村人が村から逃亡してしまうし、
藩の役人が色々と言ってくるので、間に挟まって夜も眠れない」と記されている。

当時の郡の大庄屋はほとんど似たような様子で、大庄屋にはなり手がないという状況にあった。

築城郡筋奉行の延塚卯右衛門は、1828年頃に凶作が続いて年貢米が納められない
困窮した農民への貸付金返済を、独断で免除して救済し、その責任を取って切腹した。

当時、凶作で年貢を払えない農民への救済対応は方々で行われていたので、
地域の反りが合わない実力者の反抗で、延塚奉行は窮地に陥ったのではないか
と考えることもできる、とのことでした。

講演日:2016.4.21

「豊前の街道をゆく会」が主催する「中津街道史跡探索ウオーク」は、小倉城横の紫川にかかる常盤橋を起点として
中津に至るまでの中津街道をたどります。

今日の第1回目は、西小倉駅に集合して小倉城や八坂神社をめぐり、旦過市場を通って中津口までです。
駅前には各方面から大勢の参加者が集まり、ガイドさんの先導で2班に分かれての出発となりました。


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小倉城、リバーウオーク北九州、井筒屋などの界隈は日ごろから歩きなれた地域だと思っていましたが、
さすがにガイドさんの案内でめぐった史跡は、説明がなければ見過ごしてしまうものばかりでした。


  黒くなっている小倉城焼失時の石垣               小倉城大手門跡
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 紫川にかかる常盤橋                          伊能忠敬測量200年記念碑
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春の穏やかな日差しの中、急ぎ足で多少汗ばむ行程でしたが、充実した史跡探索になりました。


 懐かしの昭和館通り                            砂津川にかかる中津口橋
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「仲津街道史跡探索ウオーク」はこれから月1回の催行で、中津への到着は平成30年2月になります。
2年がかりで52キロほどを歩くという、楽しみな史跡探索ウオークです。