2016年7月アーカイブ

中津街道史跡探索ウオークの第4回目は、
下曽根駅から中津街道を南下して朽網駅までの約3kmの道のり。

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下曽根は江戸時代の宿場町で、唐戸橋の東たもと付近に本宿が置かれていた。
このあたりは周防灘が大きく入り込み、古くから良質の製塩場があって塩浜という地名が残る。

太平洋戦争中、製塩場を埋め立てて曽根飛行場を造成した。

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下曽根駅を出発してすぐの街道左手に浄土宗の慈恩寺がある。
徳川幕府がキリシタン禁止令を出したため、小倉藩の細川忠興が寺の表で踏絵をさせたところ。
当時の小倉には2000人のキリシタンが居たと言われる。

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下曽根から中曽根へ。天疫神社には国土地理院が設置した水準点がある。
神社の南側を通る日豊本線の線路付近が、当時の波打ちぎわであった。

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荒神森前方後円墳は北九州市内で最大級の古墳。全長68m、高さ10mで、古墳に水濠をめぐらせた
6世紀半ば頃の首長級の墳墓。墳丘上には浮津島神社が建立されている。

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その当時は曽根湾が入江になっていて、その波打ち際にあるため、
遠くから眺めると海に浮いているように見えたので、この名前がついた。

古墳の森には、珍しい「マムシ注意」の看板、うっかり入ると危ない。

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神社入り口に鎮座している「かわご石」は、
貫の大池から流れ出た水が二股に分かれる分水点に置かれていた石。

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曽根新田は1792年、大里の石原宗祐が小笠原藩の命を受け、8年余りに及ぶ難工事によって開いたもので、
面積は82町8反余の広大な開作地。
宗祐は84歳で取りかかり94歳で完成させ、費用のうちの7242両を負担した。

干拓のため築かれた千間土手は、江戸期の中津街道として使われていた。

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朽網には巨大な敷地状の花崗岩群があり、帝踏石(たいとういわ)と呼ばれている。
昔はこのあたりまで潮が来ていた。

伝説では、景行天皇が貫山の土蜘蛛を討つため、この岩で戦勝祈願をした。
退治した土蜘蛛を三つに分割し、頭部を埋めたところが上曽根、胴体が中曽根、下部を下曽根に埋めたという。

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朽網という地名の由来は、網を敷物にして景行天皇を座らせた。
その網が朽ちたので、朽網になったとも伝えられている。

撮影日:2016.7.10

ある画集

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同級生から、知人の画家から贈られたという画集を見せてもらった。

画集に載っている主な作品は浜の風景。

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  (浜の風景)

積まれたブロックや無造作に干された漁網は写実的で、圧倒的な存在感がある。
じっと眺めていると、時がゆっくりと流れていく静かな漁村の情景が浮かんでくる。

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  (海の讃歌)

それにしても、こんなリアルで繊細な描写力はスゴイ!
何処をどんなふうに観察したら、こんな説得力ある素材に描けるのでしょうか?

出典:「原田康子画集」 千葉県在住