2017年1月アーカイブ

文化遺産ボランティア養成講座、「史跡からみたふるさとの歴史と文化」
第2部は、九州歴史資料館学芸員:岡寺良氏が講演を行いました。

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みやこ町には中世から近世にかけての城館が数多く残されている。

昔の人が山城として使った石垣や堀切などが手つかずに残されているのが特徴で、
発掘調査することなく容易に確認できる。

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山城には堀切、竪堀などの遺構を造って、山頂の曲輪に敵を近づけない工夫をしている。
今回の調査で、みやこ町各地に山城は19カ所確認され、そのうち15カ所で詳細な遺構が分かった。


みやこ町の三大山城は、障子ヶ岳城、馬ヶ岳城、神楽城である。

このうちの障子ヶ岳城は土塁などが明瞭に残されていて、山頂の尾根筋には5つの曲輪が並び、
斜面には堀切などの遺構をめぐらせ、素晴らしい山城となっている。

古文書によると、天正14年に秀吉が九州に入る前の年、島津勢を小早川と黒田が攻め落とし、
この城を足掛かりに香春城を攻めた。

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みやこ町の山城の調査は、平成24年から28年まで5ヵ年かけて行っている。
完成した調査報告書は一般販売もするとのことでした。

撮影日:2017.1.28

第3回文化遺産ボランティア養成講座は、「史跡からみたふるさとの歴史と文化」で、
第1部は、前苅田町文化財技師:長嶺正秀氏が講演を行った。

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527年起こった「磐井の乱」は、朝鮮出兵をしようとした大和王権軍に対して、朝鮮半島の新羅は
交流があった磐井氏に助勢を求め、大和王権軍と磐井軍の交戦となって磐井軍が敗北した。

北部九州の実力者であった磐井氏は、この敗北によって豊の国の門司、曽根、苅田、赤、大任の5ヵ所に
屯倉(みやけ)を設置して朝廷に献上した。


みやこ町には3世紀末から6世紀末にかけての大型の前方後円墳がまとまって分布しているが、
この磐井の乱を境に大規模な古墳は築造されていない。

大和朝廷が全国を支配していた時代、6世紀後半の朝鮮諸国と交流があった大和の膳氏は朝臣として食膳を担当していたが、
屯倉設置にも重要な役割を担ったため、豊の国の屯倉設置に関係した重要人物とされている。


6世紀後半から7世紀末に築造された甲塚古墳や橘塚古墳は方墳で、前方後円墳が消滅した後に造られた。
方墳は中国や朝鮮半島で盛んに築かれたもので、みやこ町の方墳も膳氏の存在が影響していると思われる。

みやこ町の中に大きな規模の古墳があるということは、この地域に勢力の大きな一族が居たと考えられ、
全国に誇るべき文化遺産になると話しました。

撮影日:2017.1.28


京都郡にある唯一の大学:西日本工業大学は、海外から大勢の学生が留学しています。

大学では、留学生たちが日本の文化に触れる機会を作りたいとの思いがありましたので、
毎年2月の国分寺三重塔まつりに留学生を招待している「みやこ町国際交流協会」は、
大学構内で、茶道の講習会を開催しました。

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表千家の先生にお願いしてお点前を実演し、お客をもてなす心構えやお茶を頂く作法などを
分かりやすく解説していただきました。

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お茶の作法に初めて接する留学生たちは、戸惑いながらも神妙に茶道の所作でお茶を味わい、
日本のおもてなしの文化に浸りました。

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撮影日:2017.1.21 (西日本工業大学内)

東九州自動車道建設による遺跡発掘調査、携わった九州歴史資料館副館長:飛野博文先生が
美夜古郷土史学校で講演を行った。

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平成28年4月に宮崎まで開通した東九州自動車道の福岡県内の新規建設区間は30km、
道路建設工事に先駆け、埋蔵文化財の調査を行った。

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旧大平村の唐原地区は低い山なので、切り通し工法で計画されていたが、神籠石が出たため唐原トンネルに変更した。
下唐原では幅4~5m、深さ1.5mの遺構が確認され、農道と水路の調査をした結果、吉野ケ里には及ばないが
600m~700mの大きな環濠集落になると思っている。

みやこ町の呰見大塚古墳は、京築では初めての装飾古墳で貴重なもの。
放射状に赤い線が描かれ、△や〇の記号がある。
保存のため土盛り工法をやめて橋脚に変更した。

路線の変更は法的、経済的な問題があるので全国的にもやらない。

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延永のヤヨミ園遺跡は、9万年前阿蘇山の噴火によって火山灰が積り、溶岩が流れて焼け野原になったことを確認できた。
そのほかにまだまだ遺跡がうずもれているので、さらに4m以上掘り下げると古い遺跡が出ると思う。

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昔の今川はあちらこちらを流れ氾濫していた。流域には京築で一番古い弥生時代の遺跡があり、
辻垣、矢富では稲作が確認されている。

長井海岸は砂取り中に古墳が500個以上も壊されている。

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行橋の長者原遺跡は、7世紀後半から8世紀にかけての古代官衙政庁遺跡で、大宰府以外では一番大きい。
豊津国府は8世紀後半から9世紀にかけてのもの。長者原遺跡は、近々国の重要文化財に指定される。

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(講演内容の、興味深い部分を抜粋しています)
撮影日:2017.1.19

昨年の4月に小倉をスタートした中津街道史跡探索ウオークは、毎月1回のペースで日豊本線を一駅ずつ南下して、
今年は行橋駅から出発。

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これまで好天に恵まれたウオークも、この日は傘を片手に小雨の中の史跡巡りを行った。
日ごろから見慣れていた街並みも探索の目で見渡すと、雨に濡れた風景が生き生きとして、
いつもと違って新鮮に目に映る。


行橋駅東口に展示されている蒸気機関車の動輪は、行橋の発展の歴史を物語る。

明治28年に行橋駅が開業し、日豊線と田川線がつながる鉄道運輸の拠点となったため、
機関区や車掌区などの重要な施設が置かれ、行橋駅を中心に街が発展した。

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行橋駅は田園地帯の真ん中に開設されたため、ここに行事や大橋の賑わいを呼び込もうと駅の東側に
碁盤の目のような市街地を造成し、そのおかげで人や物が集まって行橋に活気が生まれた。

大橋正八幡神社境内には、市街地を作り上げた耕地整理事業をたたえ「立功不朽」の記念碑が建立されている。
この事業によって神社の長い表参道は、整備道路の建設で分断された。

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江戸時代の行事、大橋付近の絵図には、長峡川河口に藩の御蔵所が描かれている。
今川と長峡川の水運を利用して、川舟で流域の年貢米を運び入れた。

今川から行橋市街地を貫いて長峡川に流れる舟路川は、江戸時代には年貢米や産物を運ぶ重要な水上交通路になっていた。

今川はかって大橋正八幡神社の西北を流れていたが、川の河道付替えによって水運機能が失われ、
それを補うために舟路川の掘削が行われた。

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洋風建築の行橋赤レンガ館は大正3年、旧百三十銀行の行橋支店として建てられた。

外壁は赤レンガで内部は吹き抜けの高い天井、広々とした空間は大正期の建物として、
ヨーロッパの雰囲気を残す貴重な文化財。

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旧東京駅や門司港駅の設計を手掛けた近代日本を代表する建築家:辰野金吾氏が設計にかかわった。

平成13年に行橋市が買い上げて改修し、ギャラリーや展示会場として一般に利用されている。

撮影日:2017.1.8